2015年1月21日
図書として出版されている系図集をご紹介致します。
寛政年間に編集された「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)
戦国時代から寛政10(1798)年頃までの諸大名、幕臣(旗本・御目見以上の下士、医者など)約2100家が記載。
具体的な内容には領地や母の名、幕府に対する功績、法名や墓地に至るまで、様々な情報が記されています。
江戸幕府の年寄堀田正敦が、幕府に対し編纂の許可を求めたことから自ら総裁とし儒者林述斉を中心に編さんを行い。文化9年に完成。
なぜ系図集「寛政重修諸家譜」がつくられたのでしょうか
調べてみましたらとても興味深い記述がありました。
正敦は、仙台藩主伊達宗村(だてむねむら)の8男でしたが、下総佐倉藩堀田家の分家である近江堅田藩堀田家の藩主堀田正富に実子がいなかったため、彼の養子となり堅田藩を継ぎました。
言ってみれば、正敦は大名の庶子(家を継がない子ども)という立場から分家大名家を相続したという経歴の持ち主であり、彼にとって本家や分家という「家」通しのつながりは日常的に意識されていたでしょう。
それから正敦は若年寄という老中に次ぐ幕府の重職に就いていましたが、『寛政重修諸家譜』がつくられた時期は、彼も参加した老中松平定信による寛政の改革が行われていました。
改革では、崩れつつあった身分制社会の立て直しが目指されましたが、本家と分家は、江戸時代の基本的な上下関係でした。
『寛政重修諸家譜』でも、どの大名家・旗本家でも、本家が必ず最初に書かれ、次に分家が書かれました。これによって誰が、どの「家」が本家であるか、分家であるか、つまり上下関係がどうなっているのか、一目瞭然になるのです。ここに本書の最大の編さん意図があると考えます。
実際、本書の序文で正敦は「宗庶をわきまえをもって政化をつなぎ、志をもって民を定め世族の国恩を保ち、ますます徳沢の流れをかたくする」と述べています。つまり「宗庶」=本分家をわきまえながら政治を行うことで秩序が安定すると言うのです。
=昭和女子大「史料を考える」より=
ご依頼を受けた家系図の修復で傷み具合や材料、内容から広く江戸時代に家系図が多く作られていた事がわかります。
また複製を依頼されるお客様のなかには「本家には古くから伝わる系図があります」とそのコピーをお持ちになるケースも多いです。
中には本家より持ち出せないという例もございます。
今では本家・分家という意識・感覚が薄くなっておりますが、系図はもちろん、名字を読み方は一緒でも違う漢字を使い区別していた事などが戸籍中にも読み取れます。
系図は江戸時代の本家・分家関係や政治とも密接しそのことから現在江戸時代の貴重な資料でもありその観点からもとても興味深く見る事ができます。
今新たに系図を家宝として作られている方がたくさんいらっしゃいますが、これもまた数百年後には貴重な資料となり、その時代背景なども想像させる事となるのでしょう
国会図書館 近代デジタルライブラリーで「寛政重修諸家譜」は閲覧可能です。
続群書類従完成会より出版
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