和生堂はこれまで掛物や巻子などの美術品や文化財を仕立て直し(修復)してきました。
保存状態や環境によってご依頼品の痛みはさまざまです。そのため、仕立て直す工程も異なり、本紙の状態を把握する観察力と知識が必要であり、経験と技術を兼ね備えてなければなりません。
この世にひとつしかない大切なご依頼品だからこそ、お客様と十分に話し合い、慎重に仕立て直しするように心がけています。 また、和生堂では、修復について分かりやすくするため、作業内容を〆直しと修復とに区別しています。
傷みの酷い本紙などの旧裏打ち紙の除去作業は本紙に負担を掛ける為、成るべく本紙の強度を高める為、または亀裂した絹本の仮止めに表打ち作業を行います。
楮紙に布海苔を塗り本紙に張付けその後、楮紙に正麩水糊を塗り2度表打ちを行います。
旧裏打ち紙と糊は、酸化し劣化しています。
新しい裏打ち紙に取り替え本紙の寿命を延ばす目的があります。
高度成長期時の建築ブームで表具師が内装壁紙を張る糊を使い表装をしていたなど様々な事例があり表装・表具の技量はさまざまでありました。現在は、表装専用糊などが販売しており以前より技量は、向上して来たと思います。私も度々除去作業時に前表具師の糊に苦しめられました。
本紙や表装裂地に対し最初の裏打ちを肌裏打ちと言ます。
糊は正麩糊を希釈して使い大きな紙本の場合は、手漉き和紙は高さが限られている為、平行に喰裂きした紙を継いで打ちます。
絹本や裂地は濃い糊を用いて、棒継ぎ(刃物で切った紙)で打ちます。
掛軸や巻子は長い年月巻いたり開いたりを繰り返すため、折れたり切れたりします。本紙の旧裏打ち和紙を除去した後、新しい和紙で打ち直し折れ防止の為、ライティングテーブルに乗せ極細く裁断した薄い楮紙を貼り折れ防止の加工をしております。
また、屏風や額の場合も亀裂した本紙に同じ加工を施す場合もあります。
描画材の剥離部分、折れ亀裂で色が薄くなった部分の補彩。
描画材の剥離部分、折れ亀裂で色が薄くなった基底材などに水彩絵具を用いて、極細の筆で注し入れ目立たなくしていきます。また、水彩絵具では出ない色・胡粉盛り、裏彩色の場合は日本画顔料や岩絵の具を用いることもあります。
補彩作業は、修復作業の最終段階で行います。
現代では水溶性絵具即ち水彩を用いて行うのが一番適した方法と考えられてます。利点としては、約100年後に修復を行う際、水彩絵具を用いていれば簡単に洗い流せます。
修復は、時代時代で研究がされ作業方法も進化して行きます。大切なのは、後世の修復家が作業を円滑に行える様にすることです。和生堂で使用している水彩絵具は、Winsor&newton製を使用しています。
虫食い穴、亀裂等でできた穴を補彩。
仙厓 義梵(せんがい ぎぼん) 1751〜1837
美濃の人。九州の聖福寺の禅僧であったが飄々たる
俳画的で戯画とも言える墨絵を描いたので、その洒脱味が賞賛された。
前回の修復された方の糊が濃かったので旧裏打ち和紙の除去作業が大変でした。また200年近く経っている本紙ですので傷みも酷く折れたり切れたりしている個所も多かったので薄い美濃紙を1分弱に切り力紙を張り、之からは折れ無く巻いて保管できます。
狩野探幽(かのう たんゆう)
1602年3月7日ー1674年11月4日没、京都生まれ。狩野永徳の孫
探幽は江戸時代の狩野派を代表する絵師。名は守信。
早熟の天才肌の画家で、11歳のとき、駿府で家康に謁見。
15歳にして将軍の御用絵師となる。
探幽は江戸城、二条城、名古屋城などの公儀の絵画制作に携わり、
大徳寺、妙心寺などの障壁画も制作している。
荒井寛方(あらい かんぽう)
明治11年~昭和20年没(享年66)
栃木県塩谷郡生まれ
本名寛十郎。父は上絵師で滝和亭に学んだ。
32年画家を志して上京、水野年方に入門。
翌年寛方の雅号を受ける。
35年国華社に入社、仏画の摸写に約十年間従事。
文展・院展などで受賞多数。
法隆寺金堂壁画摸写に従事。
当麻寺天井画を制作。
御曼荼羅
御曼荼羅は、お彼岸とお盆に掛けられ余りに傷みが酷くお客様からご相談を頂き修復を致しました。修復後は心良く御先祖様を迎えられると喜ばれました。
災難から人・家を守る御曼荼羅を修復して永年に渡り家宝寺宝として後世に残す事ができます。
現代では、掛軸修復後の真ノ真を作れる職人さんが少なくなりました。当工房では、御曼陀羅のお仕立ては、格式高い真ノ真仕立てで製作しております。